東京都子供の心診療支援拠点病院事業

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「第2回 子どもの心を考える都民フォーラム」より(抜粋)

 第2回 子どもの心を考える都民フォーラム「現代の子どもが抱える心の問題〜発達障害を中心に〜」の“第1部 講演会”における旧都立梅ケ丘病院副院長(現、都立小児総合医療センター副院長)田中医師の講演内容をご紹介します。
 「梅ケ丘病院の田中です。皆さん、今日はお忙しいところようこそおいでくださいました。
 情報量の多いお話が続きましたので、私は思春期に焦点を当てた少し柔らかいお話にしたいと考えました。「発達障害児たちの思春期問題と対応」です。このことを通じて思春期というものについて、いろいろ考えてみたいと思っております。
 発達障害の子どもに限らず、思春期の子どものことを少し思ってみたいと思うわけです。その上で発達障害の子どものことを考えると、発達障害とは何か、加えて思春期とは何かということが見えてくるかと思います。

 まず、思春期になった子どもたちが気がつくことというのがあります。
 いろいろな心の問題が思春期には多発いたします。子どものこころの病院でそういう子どもたちを診ていますと、思春期というのはいろいろなことに気がつく年代なのだ、いろいろなことが気になり始める年代なのだということがよくわかります。まず、子どもたちがどのようなことに気がつくかといいますと、「自分にとっては普通だと思っていても、ほかの人にとっては普通でないことがある」ということです。これは我々大人には当たり前のことですけれども、人というものがだんだんわかってくる思春期の子どもたちには、このことはとても大きいかもしれない。自分は普通だと思っていたことが、人にとっては普通ではないのだ。これはいい意味もありますけれども、特に、例えば発達障害のある子どもたちなどで、みんなができないと思っていたら、できないのは僕だけだったのだということに気がつくという面もあります。つまり普通ということに意味がだんだんわかってくる。あるいはその違いがわかってくるということです。

 もう1つは、「自分は自分というものから逃げられないのかもしれない」ということです。自分というのは一生自分であり続けなければいけないのかもしれない。これも当たり前のことですけれども、子どもの自分の認知というのは、どこかで夢を描いているところがありまして、何か一発逆転があって、自分はとんでもない大人物になるかもしれないという夢を描けるのです。ところが思春期近くなりますと、自分というのは、この自分で一生やっていかなければいけないのかもしれないということに、いわば気がつくわけです。自分はずっとこのままで行くのだということがわかり始める。これもまた思春期ということかと思います。

 次に、「自分のことがわからないと結構生きにくい」ということ。子ども時代は自分のことというのはわからないのが普通ですが、だんだん自分というものがわかってきて、「自分というもの」というとらえをする。例えば、お父さんはお父さんという人だというふうに考えるようになる。学校の先生は、うちの先生はこんな先生なのだと言うようになる。そうすると、自分も自分という人なのだ、自分は一体どういう人なのだということを考え始めるのです。そして、自分というものがよくわからないというのは思春期の子どもやそれ以降の青年にとって案外生きにくいことなのです。つまり、自分らしさということがわからないと、「自分で自由にやってごらんよと」か「君らしくやっていいんだよ」と言われても、その自分らしさというのがわからないわけですから、案外つらいものだということであります。このようなことが、思春期の子どもたちの自分に関する混乱や生きにくさの1つの源になっているのではないかと、私は思っています。

 そうしますと、とりわけ発達障害のある子どもたちにとって、思春期というのはどのようなものかということを考えることが少しできるように思います。思春期というのは、普通の子どもにとっても発達障害の子どもにとっても等しく思春期です。何が違うかといいますと、それまで生きてきた中でのつまずきが違っていたり、偏りが違っていたり、人とのつき合い方が違っていたり、そういうことを通しての体験が違っていたりするわけです。

 そうすると、先ほど自分というものに気がつくということを申し上げましたけれども、発達障害のある子どもたちの思春期を考えますと、どうも自分のことがなかなか好きになれない子どもたちが多いのです。みんなが普通にやっていることが自分は普通にやれなかったり、みんながつまずかないでやれることが自分だけなぜかつまずいてしまったり、いつも、「何でおまえはそうなんだ」という言い方をされたりするからです。何故か迷惑がられて、悪いことをしているつもりはないのに自分にだけ友達がいない、そのようなことを考え始めるのです。

 子どものころはそれをみんな人のせいにしていればいいのです。「だって、○○ちゃんが遊んでくれないんだもん」「だって、お母さんが……」と言っていればいいのですけれども、思春期になるとだんだんそうではなくなります。自分には何かの偏りがあるということに気がついて、そういう自分がなかなか好きになれなくなってくるのです。これが発達障害の子どもの思春期の1つの大きなつまずきになっていると思います。

 あるいは逆に「社会はいつも自分のことを邪魔者にするんだ、みんなが僕のことを嫌うんだ、なぜか僕だけのけ者にするんだ、おまえはみんなと違うというふうに言うんだ」とか、「お父さんかお母さんまで、君はみんなと違うんだからという言い方をする」と思うようになります。連れていかれた病院の先生にまで、「君は少し違うんだから」と言われる。「そういうみんなって一体何だ、社会が悪いじゃないか、そういう社会とうまくやっていきたいと思わない」「もういい、こんな社会なんて」というふうに思うようになるのも彼らの思春期なのです。思春期で自分のことが見えてくる。自分のことがわかってくるから、そういう社会の中で生きていくことがとてもつらくなるということだろうと私は理解しているわけです。
 自分のことが好きではなくなると、自分の将来のために今頑張ろうとは思えなくなります。

 普通に成長した、かわいがられてそこそこうまくいってきた子どもたちにとって、自分のことがわかってくるということは、自分にできそうなこととか、自分にはできそうもないことがわかってくることです。自分にできそうなことや、できそうもないことがわかってきても、自分というもののイメージはそれほど悪くないですから、ではできることをすればいいじゃないと思うわけです。そのようにしてある程度現実的な夢を描く。夢を描ければ、その夢に向かってなら頑張れるのです。

 ところが、なかなか自分が好きになれなくて、夢が描けなくて、どうせ僕なんか頑張ったっていい大人になれない、幸せになんかなれない、お仕事就けるかわからない、みんなみたいになれないと思ってしまった子どもたち、特に発達障害を持った子どもたちは、では今頑張るということの理由が見つからないです。将来何かになれるから、そのためになら一生懸命頑張るわけですから、なれるものが見つからなかった子どもたちは頑張る理由がなくなってしまうのです。それで、「どうせ僕なんかがんばったってできっこない」と言い始めるのだろうと思います。

 この問題というのは、決して発達障害のある子どもたちだけの問題ではなくて、今思春期問題を起こしている、青年問題を起こしている子どもたちの多くがやはりこの辺でつまずくのです。自分のことがいいと思えない。自分のことが好きだと思えない。だから頑張らない。「いいんだ、みんながやっていることなんか」と社会に背を向けるようになります。自分に対しても失望するということで、みんなとやっていきたいためにやる努力から大きく転がり落ちていくのだろうと思います。

 そこで、発達障害の子どもにとって特にどういうことが起こっているかといいますと、現実認知の偏りが起こります。現実認知の偏りというのは、現実をありのままに受け取ることができなくて、自分のイメージで少しゆがんで受け取ってしまうということです。「自分がこんなに生きにくいのは、小学校のころにいじめたあいつが悪い」とか「小学校の先生が一言ああ言ったから僕はこうなってしまったのだ」とか「お母さんがあのときこういう道を選ばせてくれたら僕はこんなふうにならなかったのだ」という受け取り方をします。それは現実認知のゆがみです。そのほかにもいろいろなことがあって今があるのですけれども、彼らの認知の中では現実のほうがゆがんでいて、そのゆがんだ現実に基づいて今を認知しますから、今というものが少しずれてしまう。

 それと同時に、自己認知の偏りということも起こります。自己認知というのは、自分で自分のことをどう理解するかということです。それは先ほど言った、どうせ僕なんかとか、どうせ私なんかという言葉にもあらわれます。やれば、頑張ればできるんだよということをいくら見せてあげても、示してあげても、やらせてあげても「いやだめだ、僕なんかどうせやったってだめなんだ」と言い張るのです。それは自己認知がゆがんでしまっているわけです。そのゆがんだ自己認知や現実認知というのを発達障害のある子どもたちは、長い時間をかけて育ててきてしまったということがあるのだろうと思うのです。

 発達障害の子どもたちのベースにあるPDDの傾向やADHDの傾向というのは、そういう自己認知や周辺の状況認知、現実認知のゆがみを起こしやすくします。だれが悪いということにこだわってみたり、自己評価がすごく下がったりする。そういうことを起こしやすいという特性も、彼らの持ち前のものの中にはある。そうすると、思春期になってそういう問題を抱えたまま今を語ろう、今を考えようとすると、どうしてもいい将来イメージ、自分がどうなっていけるかということが思い描けないわけです。
彼らの将来イメージというのは少し偏ったところ。現実的な自立課題への意欲というよりは、自立課題への意欲の低下、どうせ僕なんかやってもしょうがいないということに固まってしまうということが起こる。なかなか現実の社会に出ていこうとしない。出ていくだけの勇気も持てないし、それだけの意欲もわいてこないということが起こっているのだろうということを考えるわけです。

 次に、そのようにして自分や社会に偏ったイメージを抱いたまま思春期に突入した子どもたちの心の問題を、「自分らしさ」ということをキーワードにして考えてみることにします。
 自分はどういう子どもかということを確認するために、普通の子どもたちはいろいろな子どもと、あるいはいろいろな大人とつき合って、その評価を自分の中に取り込む形で、「自分らしいってこういうことなんだ」ということを理解していきます。「君って人に優しいよね」とか「君ってよく気がつくよね」などと言われる評価を自分の中にためて、自分というのはこのような子だということを認識する。それを動かないものにしていくわけです。

 そうすると、コミュニケーションがうまくとれなかったり、仲間がうまくできなかったりする子どもというのは、そういう機会がすごく少なかったことになります。つまり自己評価を固めるという作業がなかなかできない。それで、自信につながるような自分らしさがうまくとらえられないのです。

 そういうことの不安のあまり、ほかの人からの評価を過剰に気にする、あるいは完全に無視する、どちらかに走っていきます。人にどういうふうに言われるかをすごく気にして気にして、結局自分らしさが余計にわかならなくなっていったり、全く人の評価を無視して、人と自分をかみ合わせるということをやめてしまうか、どちらかになります。

 そうすると、そこで必ず悪循環を起こしてしまいます。人の評価を気にすれば気にするだけ自分というものがわからなくなる。人のことを無視すればするだけ自分というものが余計にわからなくなるという悪循環がここできっと起こるのだろうと思います。つまり、そうしていくと、自分というものを、自分らしさがどんどんとらえらなくなって、自分というものはどんどん不確かなもの、よくわからないものになってしまうわけです。それがここに書いた自分の不確かさという問題でございます。

 自分のことがよくわからないという問題そのものは思春期にわりあい普遍的な問題なのです。思春期というのはどこかで自分のわからなさを通過していく時期。ただ、思春期の発達障害の子どもにそれが起こりますと、すごく自己認知も現実認知もゆがんでいます。しかも心の中で悪循環を起こしやすいです。その悪循環にとらわれて、どんどん自己評価が下がってしまう。周りへの理解がマイナスに傾いていく、そういう悪循環を起こしやすいというのが発達障害的なあらわれ方なのだろうと思うのです。

 例えば、不登校という問題は、今はどの子にでも起こり得ます。学校とうまく合わなかったり、担任との対話がうまくいかなかったり、いじめられたりすれば起こるのですけれども、その不登校がどんどん悪循環すると自分の部屋からも出られなくなる。その中でいらだちを募らせて、暴力的になったりということが多分、発達障害の子どもにより起こりやすいだろうというふうに考えるわけです。
思春期の子どもたちというのは、基本的にはすごくエネルギーがありますから、自分のことがわからないといってほうっておかないのです。自分のことをわかろうとする。そして、わかろうとすることが思春期的な問題行動になります。

 これを取り上げますと、これは発達障害に限らずなのですけれども、思春期の一般的な自己確認行動、自分を確認する、よくわからなくなってしまった自分をどうやって確認するか。

 例えば、強迫的になるというのは、先ほど確かにそれを見た、その見た自分が確かではなくなってしまうわけです。だからだれかに確かめる。「確かに僕はあそこにあれを置いたよね」ということを人に確かめないと自分というものが確かに思えない。これが強迫です。

 自傷というのは、例えば手首を切ったり、お薬を飲んだりなど、最近の子どもはよくやりますけれども、あれも私はある種の自分を確認する、あ、自分は確かに生きているんだ、生きていてもよかったんだ、人が心配してくれるんだとか、ちゃんと血が流れているんだということを確認するために私たちはそれをやっているというふうに理解します。

 摂食障害もそうです。一生懸命やせようとする。やせさえすれば、自分はうまくいくと思うというのも、どこかで自分を確認しているわけでしょうし、暴力という形で自分がよくわからないといういらいらを代償的に周りにぶつけるということをするかもしれない。先ほど言ったような文脈で、家族にそれを投げつけるかもしれない。

 それがさらに発達障害的な偏りを持つようになると、例えば強迫的確認や自傷を、それはだめだよととめられたときに大混乱を起こします。パニックに陥る。あるいは自分に混乱した子どもたちは自分がうまくいかないのは、例えば自分が女の子だったら、自分が女のせいでうまくいかない。最近は性同一性障害ということもありますので、自分はほんとうは男の子だったのだというところにこだわる子どもたちが結構いるのです。私が見る限りでは、発達障害と関連した性同一性障害の方というのは、結構多いように思います。それはある意味で、自分というものの混乱、自分がよくわからなくなってしまったということの発達障害的な解消の仕方のような気がいたすわけです。あるいは、同じ摂食障害、暴力でも体重というものに妙にこだわったり、あるいは暴力を振るう、お母さんとの関係。別にいらいらすることは何もないので、とりあえずお母さんをなぐっておくというようなこだわり方をするのが発達障害的な偏り、あらわれではないかと思います。それがどんどん抜け出せないところにいってしまうという問題が起こってまいります。

 そして最終的には、自分のことがよくわからないままでの自立の難しさです。自分のことがよくわからないままで自立はできないです。この自分でやっていくという気持ちのふんどしを締め直すというか、仕切り直しができないわけですから、そのまま自立していく、この自分を自分で引き受けてやっていくということが非常に難しい。そうしますと、彼らにとって自立の課題というのが非常に遠いところに行ってしまうことになるわけです。

 さてそうしますと、自分らしさというものを支援する。自分らしさというものが自分にとってポジティブな意味を持つ、自信につながるために私たちはどんな支援が必要なのかを、最後に少しだけ考えてみることにします。
治療と言うよりは支援です。この自分でやっていける感じを取り戻すということがゴールになります。この自分でもやっていけるのだ、アンバランスな僕だけれども、これでもやっていけるじゃないという感じを取り戻してくれれば、彼らはそこから立ち直ってといいますか、自分の足で立っていくことができます。それをどうやるかというのが我々大人の役割だろうと思います。

 そのためにはまず、自分が生きてきたことの意味を、ゆったりと確認していくことが必要になります。ほんとうはいい経験もたくさんしてきているのですけれども、そこがゆがんでしまって、「そんなものはなかった、全部嫌なことばかりだった、僕の少年時代は」などと言うわけですけれども、そうではない。君はちゃんと愛されてきたし、ちゃんと教えてもらってきたし、ちゃんといろいろなことを覚えてきたじゃないということを見つけ直すという作業。これが思春期になって改めて必要になってくるということでございます。

 それからもう1つ。自分や自分を取り巻くものとの穏やかな、それで安定した関係を取り戻すことです。先ほどの小枝先生のお話の中にもそういう関係性の問題というのは少し出てきていました。一番大事な部分はその人が生きていてもいい、その人が生きていてよかったと思える安定した関係、そこをつくり直すところから始め直さないと、思春期の子どもたちの立ちゆかなさというのは、なかなか立ち直る糸口を見つけられないのではないだろうかということを思います。

以上でございます。どうもご清聴ありがとうございました。」

※本ページ掲載の第2回分に関しては、ブックレットの在庫がなくなりましたので、配布を終了させていただきました。

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