東京都子供の心診療支援拠点病院事業

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「第41回 子供の心セミナー」より(抜粋)

 第41回 子供の心セミナー「発達障害といじめ」の“第1部 講演会”における都立小児総合医療センター田中医師の講演内容をご紹介します。
 「それでは、早速お話に入りたいと思います。
 「子どもの発達環境としてのいじめ」というのはちょっと妙なタイトルだと思われるかもしれませんが、私がお話ししたいことは、「いじめ」とは子どもの生きにくさ、育ちにくさ、親の立場からすると育てにくさということの一部であるということなのです。

 今の時代、すごく子どもが生きにくくなっていまして、そのあらわれが発達障害問題であったり、いじめ問題であったり、子どもたちの思春期問題であったり、あるいは少し角度は変わりますけれども、虐待をされる、そういった状況なのではないかということを漠然と考えています。今日ご一緒に「いじめ」について考える前提となる問題として、このお話を少しさせていただきたいと思います。
 先ほど楽屋で伺うと、木先生、本田先生のお話がとても具体的な事例の話、対応の話になりそうですので、私のお話はそのあたりは省いて、こんなふうにも考えられるのではないだろうかという考え方のお話しをさせていただきたいとばと思います。

 発達障害の子どものいじめ体験ということを話の入り口にします。あるデータでは、アスペルガーなど自閉圏の子どもたちの半数以上が全学校生活の中でいじめを受けた経験を口にしていると言うことです。これにはその子どもたちの受けとめの問題、些細なことでもいじめと受けとめてしまうという問題も含まれているかもしれないのですけれども、どこかで彼らが周りにいじめを呼ぶ気配を出してしまっていたり、いじめられやすい環境を彼ら自身がつくってしまったりしているところがありはしないか、そんな見方もあるいは必要なのかもしれないのです。逆にいじめる側からすると、自閉っぽい子どもたちをいじめると何かおもしろいところがあるといいますか、いじめてやりたくなる何かがあるということになるのだと思うのです。

 誤解しないでいただきたいのは、これはもちろん発達障害の子どもたちの責任ではありません。しかし、いじめられる側には責任がないよねと言って、いじめられる子どもたちの問題そのものを 見過ごしていくと、これまた問題をさらに大きくしていくようにも思うのです。そういったことを考え始めたのがこの問題の私にとっての入り口になります。  こうした発達障害と発達環境の関係というのは、いろいろ問題を含んでいると思うのです。私たちが発達障害のことを親御さんなどに説明するときには、「発達障害は基本的には環境の問題ではなくて、その子どもが生まれつき持っているバランスの問題、その子の特性の問題なんです」というお話をします。つまり定義上は発生要因として環境の影響は受けないのです。

 ところが、現実問題としては、問題が拡大したり顕在化したりする過程では、環境の影響をかなり受けるのです。その子どもが持っている偏りがどんなあらわれ方をするか、極端になると不適応になって不登校になったり、暴力的になったり、時にはこだわりが強くなったり、衝動性が高くなったりするわけですけれども、その子が同じ偏りを持ちながら、わりあい平和にちょっとアンバランスな子として育っていけるのか、それとも暴力を出してしまうのか、暴力被害に遭ってしまうのかみたいな境目のところでは、かなり環境の影響があると考えざるを得ないわけです。この子がもっといい環境に育っていたらこんな問題にはならなかったけどなということは、これは多々あるのです。

 そして、もう一つのことが言えるのですけれども、発達障害の存在、その子が発達障害を持っているということは、その子自身の育ちの環境を悪化させる要因ともなり得る。つまり、環境の影響を受けて発達障害が目立ってしまうということもあるし、その子が発達障害を持っているせいでその子の置かれている環境が悪くなることがあるのです。例えば、少し偏りがあってコミュニケーションを取りにくい子どもを育てようとすると、親がいらいらしてしまう。そうすると、家の中の雰囲気といいますか、家の中のコミュニケーションが次第に悪くなっていって、子どもが育ちにくくなっていってという関係もある。
 だから、こういう三通りの側面といいますか、病因論としては関係ない、でも、実際には影響を受けるし、子どもが持っているものが環境に影響してしまうということもあるのではないだろうかというのが、私の環境と発達障害と発達の環境の考え方です。

 その例として、虐待の問題があります。虐待という問題を、ほんとうにごく一部の極端な家の話だと思っていますけれども、実はそうでもない。つまり、いらいらしてつい親が感情の抑制を外してしまうことは結構よくあるわけですね。それがちょっとエスカレートすると、もう虐待の状況になってしまう。
 発達障害の子を育てていると、親がいらいらしてしまう度合はそれだけ高いですよね。今日のお話の中では「不適切養育」という言葉を使いますけれども、不適切な養育環境に置かれると、その子どもの発達の偏りは余計際立ちやすくなる。普通は「発達障害」という名前をつけられなくてもいい子どもが、まさに発達障害的な発達をするようになっていってしまうということもあります。そういう意味で相互関係のいい例なんです。

 それから、いじめもそうです。いじめられる側に何か学校などでも「おまえ、そんなことをやっているからいじめられるんだ」みたいな言われ方をされてしまう子どもがいる。そういう子どもたちは、どこかで発達の偏りを持っていたり、不適切養育などの環境の要因を持っていたりして、普通の子どもと同じような枠づけが難しく、普通の子どもと同じようなパターンの行動がなかなかとれないのです。そうすると、いじめる側の格好の標的になってしまう。標的になって外傷的な心の傷になるような体験を受けると、またその先、その子どもの育ちが順調にいかなくなるという、悪循環がそこで生まれてしまいます。時には、その子ども自身の衝動性が高いと、きのうまでいじめられていた子が急にいじめる側に転じたりしますよね。そういった問題が全部一連のこととして子ども自身の心の育ち、そのバランスと環境の問題としてあるのではないだろうか、そんなふうに考えていく必要があるように思います。

@社会性の問題(周囲とのなじみにくさ)
A自尊感情の低下(生きている意味の見つけにくさ)
B衝動コントロールの問題
 今日は、それを一つのまとめた考え方にするために、こんなことを考えてみました。
 生きにくさをつくっている要因は、僕は3つの側面があると思っています。いろいろな切り口があると思うのですけれども、子どもの逸脱行動の原因は何かと考えると、この3つからそんなに大きく外れることはないように思います。

 1つは、社会性の問題。対人関係とか、社会性を身につけるか、それが偏ってしまうか。偏ってしまうということはうまく周りとコミュニケーションがとれないということですし、普通の子どもがやれるような行動枠がなかなか身につかないということです。そのことにより子どもが目立ってしまう、周りとうまく合わない、したがっていじめの標的にもなりやすい、そういう問題が一つあります。

 もう一つは、自尊感情の問題。「自分って価値がある」と思える感覚、「自分って、生きていく意味があるんだ、生きていく価値があるんだ」と子ども自身が思っていられるかどうかです。これを失ってしまうことは、子どもにとって生きていく自信をなくしてしまう。頑張ろうという気持ちを起こさせなくする、とても大きな要因です。それも、子どもの適応を難しくしますし、周りの子どもとうまくやっていく、周りの子どもから大事にされていくことをすごく難しくします。

 それから3番目に、衝動コントロールの問題で、自分には守るべき枠があって、その中で行動しようとすること、いろいろいたずらはしてみたいけれども、さすがにこれをやったらまずいよなというところでちゃんととまれるということです。その力が子どもが生きていくのに必要で、それがないと、いろいろなはみ出しをやってしまうので、どうしてもいろいろなところで目立ってしまうし、周りからもなかなか受け入れてもらえないということになるのではないかと思うのです。

 この3つのポイント、3つの側面があります。このバランスを崩してしまうと、目立ってしまう困った子どもになりますし、逆にこの3つのことを子どもの中に育てていくことが、子どものこころ、内面を育てていくことになるのだろうと思います。
 このバランスをくずしてしまった子どもたちが、 幼児期や学童期にどんなふうな見え方をするかということを少しお話ししてみます。



 表の、@が社会性の問題、Aが自尊感情の問題で、Bは衝動コントロールの問題というふうに読んで下さい。
 幼児期、学校に上がるくらいまでの子どもにとって、対人関係の問題は、かかわりにくさとして表現されます。他の子どもとなかなかうまく遊べないとか、大人がかかわってあげてもなかなか関係がつかないとか、やたらしつこいとか、くどいとか、べたべたするとか、安定した関係になかなかなれないというのがこの時代の子どもの社会性の問題です。
 それから、自尊感情の問題ですけれども、自尊感情とは、ある程度自分というものを考える年齢になって初めて正面から問題になります。私って生きていく意味があるのだろうかみたいなことを考えるのは、ある程度大きくなってからなので、実は幼児期にはあまり問題にならないのです。ならないけれども、ないわけではない。あるとすると、この自信のなさと行動回避なんです。つまり安心して失敗ができない。自分っていいものだから、お母さんは自分のことを大事にしてくれると思うわけでしょう。それが崩れてしまっているということは、失敗したらとんでもないことになるということなんです。そうすると、自信がなくておっかないこと、不安なこと、冒険は避けようとするみたいなことになります。衝動コントロールに問題があれば、これは聞き分けのない子どもということになりますよね。幼児期の子どもたちの逸脱行動といいますか問題行動は、この3つのどこかに、大体、入るのです。

 この3つの問題を持っていると、すごく育てにくいですよね。かかわりにくい。すごく相手しにくい。こういう子が自分の子どもだったら、とてもなかなか育てるのはしんどいなと思いますし、幼稚園で相手しておられたら、こういう子がクラスにいるとなかなかクラスがまとまらないのよねというのがこの3つの行動パターンを持っている子どもたちということになるのだろうと思います。
 今日のお話の大事な部分は、この育てにくさということです。先ほども触れましたが、この育てにくさが、裏を返せば子どもにとっての育ちにくさなんです。

 もう一つ注目していただきたいことは、お話が先ほどの表のところに戻りますけれども、発達障害の子どもたちもこの3つの行動パターンとして問題を起こしてくるということです。PDDの子どもたちはすごくかかわりにくいですし、ADHDの子どもたちはとても聞き分けがないわけですから。
 そして、虐待を受けた子どもたちもこのパターンで問題を起こしてくるのです。愛着障害としてかかわりにくい、かかわりが持てない子どももいますし、愛着障害の結果として聞き分けがない子どもたちもいる。そしてどちらの子どもも自分というものに自信を失っていくのです。そうした子どもたちが身につけてしまった行動全体がその子たちの育てにくさを生むことになりますし、周りの感情を刺激してしまって、周りがいらいらして、その子どもに適切に当たれないという状態になり、それがまた子どもに返っていくのです。
 こういう悪循環が生まれてしまう。入り口は発達障害でもいいし、育ちの環境でもいいのです。ひとたびこのルートに入ってしまうと、不適切な養育としてまた子どもに返っていくという一つの構造が生まれてくると思うのです。

 次に私たちが問題にしようとしているのが、そういう子どもたちの学童期です。こうした課題を背負っている子どもたちにとって何が難しいかというと、集団適応なのです。
 学童期で一番課題なのは集団に適応できるか、みんなと一緒にやっていけるかどうかということです。こうした問題を少しでも持っている子どもは、集団適応がすごく難しいのです。周りの子どもとのかかわりがとりにくかったり、自信をなくしてみんなについていけなかったり、聞き分けがなくてみんなと同じルールの中で行動ができなかったりする子どもたちにとって、集団行動は学校に入ったときにとても難しくなるわけです。

 こうした集団適応の難しさに衝動性が加わると、パニックになったり、さらには行動暴発が起こります。
 そしてそういう子がいじめの対象になったり挫折を味わったりすると、自分って生きていていいのだろうかと子どもながらに思うわけです。それがこの『なげやりさ・自己失望』と書いた部分です。
 学童期の真ん中ぐらいの子どもたちは、「自分って何だろう」ということを考え始めるからなんです。それまでの子どもは、自分というものをすごく狭い範囲で、時間的にもわりと短いスパンで考えていますから、すごく悲惨な思い、すごくつらい思いをしたり、逆にいい思いをしたりしても、だから将来どうなのだとはなかなか考えないです。ところが小学校3年生とか4年生ぐらいになると、自分ってずっと自分というものが将来まで続いていくのだと思うようになりますでしょう。そうすると、今の自分に傷つく。「僕ってみんなと違うじゃない、みんなができることが僕はできないじゃない」と思ったり、「みんなの家はお父さんもお母さんもやさしくていいのに、うちはどうしてこうなんだ」とかと思ったりすると、その自分がこの人生の残りを全部背負っていかなければいけないということがわかってきてしまうわけです。そうすると、「今、自分が一生懸命頑張っても意味ないじゃない」と思いますよね。それがなげやりにつながる。

 なげやりになってしまうと、それまでやっていた努力をしなくなります。そうすると、それまでできていたことがどんどんできなくなってくる。これがいわゆる二次障害の状態ということです。僕は「二次障害」という言葉はあまり好きではないので、書いていないのですけれども、それがどうして起こるかというと、自分に失望した結果としてセルフエスティーム(自尊感情)がぐんと下がるからなのです。そこで「どうせ何をやってもしようがない」「適応しても意味ない」と思ってしまうところから始まってくるのだろうと私は考えています。

 さらにコマを進めて、そういう子どもたちの思春期を考えてみることにします。
 学童期には集団適応ができれば何とかもっていたのだけれども、思春期になって大きな課題は、自分というものを受けとめてくれる誰かが絶対に必要になってくるのです。親密な関係、それが同性であれ、異性であれ、学校の先生であれ、自分にとってすごく頼りになって自分を開ける相手を見つけなければいけない。

 発達の問題を持っていたり、いじめでめためたに傷つけられたり、あるいは虐待的な環境に置かれた子どもたちは、投げやりになったり、みんなと一緒にやっていくことに不安、恐怖をすら覚えたりしていますから、他人との親密な関係をつくることができなくなるのです。

 その背景には必ず自分が好きになれないという問題がありますし、その拒否感情が何かに向けられた攻撃性になります。その屈折した攻撃性が自分のほうを向くと、リストカットのような自傷行動になりますし、周りへ向くと小犯罪や性的逸脱などの社会的な逸脱行動になります。

 さらに、その子どもたちが思春期を通り越してどういう時期になるかというと、自立を考えなければいけなくなります。青年期の特徴は、自立が課題になるということでしょう。自立が課題になるということは、自分で物を決めて、自分で社会の中でやっていかなければいけないということです。
 ここまでうまくいかなさ・生きにくさをいっぱい背負ってしまった子どもたちにとって、自立はすごく難しい課題です。自立を支えてくれる自分の周りのコミュニティーといいますか人の輪がうまくつくれない、社会的に孤立をしてしまって、ひとりぼっちで物を考えなければいけないですし、たまに自分のことを構ってくれ、自分を受けとめてくれる人がいると、猛烈にその人にしがみつくわけです。とても依存的になるか、全く孤立してしまうかという、すごく不安定な人間関係を営むことになりますし、そこに衝動性が加わると、人や物に対する、あるいは何かをすることに対する依存とか暴力とかといった問題が生まれてきます。

 どうしてここでいきなり暴力なのかということについては後でまた説明をしたいと思いますけれども、次にはそういう人はどういうふうに成人して年をとっていくかということではなくて、ちょっと違うルートで物を考えたいと思います。

 そういう人たちも自分が子どもを育てなければいけない時期になるのです。そうしたときに、どういう子育てがそこで待っているか、どういう家庭づくりといいますか、自分にとっての次の世代づくりがそこで待っているかということを考えてみたいのです。すると、そういう人たちは、自分の子どもとの間に愛着を形づくることがとても難しいのです。自分の子どもにどういうふうに思いをかけていくか、丁寧に見ていくか、子どもに対してポジティブな視線を注いでいくことがどういうことなのかがなかなかわからないのです。しかも、そこを軌道修正するために示唆をしてくれる周りとの関係もなかなかないのです。子育てを支えてくれるおじいちゃんとか、おばあちゃんとか、「お父さんも少しはそういうことをやるものよ」と声をかけてくれる周りの人がない関係の中で子育てをしなければいけないということになるのです。

 そうした不安を抱えたまま子育てをすると、子どもに対してはとても支配的になるのです。自分が、自分がちゃんとやれているかどうかが不安でしょう。自分が不安なときはどうするかというと、マニュアルに頼るのです。何とかマニュアルどおりに子どもを育てようと思う。ところが子どもなんてマニュアルどおりに育つはずがないのです。で、書いてあるとおりに育たないといらいらしたりするということがここで起こります。子どもの成長そのものを全面的に支配しようとしたり、あるいは、そこでうまくいかない状況に業を煮やして、あるいは自分の人生を子どもが介入してきて壊してしまったような感じがする。そうすると、全面放棄してしまうのです。
 お父さんは全面放棄してしまうには仕事に逃げればいいですけれども、お母さんはなかなか逃げ出せません。そうすると、心理的に子ども・子育てを投げ出してしまうということが起こったりしますし、そこに衝動性が加われば、子どもやパートナーに対して攻撃的になる、下手をすると暴力的になるということが起こります。

 これは何か。子どもにとってはものすごく生きにくい環境、不適切な養育そのものなんです。そこでまた生きにくい子どもたちが生まれていくという循環が成り立つことになります。
 「育ちのつまずき」、これは「育ちにくさ」と言ってもいいかもしれませんけれども、発達障害が原因であれ、適切に育ててもらえないということが原因であれ、育ちのつまずきがあると、そのつまずきが生きにくさがどんどん増幅するような一つの渦に飲み込まれていくのです。
 子どもの周りで起こっているなかなかとめようがないいろいろな問題がありますよね。私たちが随分取り組んでいるのだけれども、なかなかとまらない問題は、みんなこの渦みたいなものが関係しているように私は思うのです。

 幼稚園、保育園とか小学校の低学年などでは、何か気になる子どもとか、手がかかる子どもが増えてきてとまらない状況です。いじめの問題も随分言われながら、なかなかそこをとめる根本的な策を私たちはつくれないではないですか。また、いわゆる思春期問題、今ですとリストカットとか、触法行為、これは例えば脱法ハーブとか、性的な逸脱なども含めた思春期問題があります。また、ひきこもりの青年が、今、何十万といると言われていますけれども、この数がどんどん増えていくという状況も私たちはやっぱり止められていないわけです。そして、そういう青年たちが自分が子どもを育てる状況になってしまうのは、もうほんとうに一歩手前ですよね。そうした中で、養育が不適切になり、またそれが子どものつまずきをつくっていく、こういう循環が成り立っているように思うのです。

 いじめという問題も、こういう循環の中の一現象として考えていかないと、そこだけ取り出して何とかとめようと思っても、なかなかとまるものでもないし、根本的な策にならないのではないかということを思うのです。

 もう一度、そういう視点から発達障害の子どもたちにとってのいじめ体験をまとめ直して私の話の終わりにしたいと思います。一つは、学童期の外傷体験。特に自閉圏の子どもたちは、高率にいじめの対象になりますし、フラッシュバックを起こしますよね。つまり、ほかの子どもたちよりも傷つきやすくて、その傷をネガティブな経験としてずっと記憶しているのです。つまり、それに関係したことがあると、繰り返しそれを思い起こす。そこに引き戻されてしまうということを繰り返しているのです。

 それだけ普通の子どもよりもいじめという問題にネガティブな影響を受けやすいのが発達障害の子どもたちであると申し上げていいかと思いますし、そこで自己イメージの低下をきたし、何とかうまくやっていこうという気持ちを失いやすい。つまり、いじめを呼びやすいし、いじめの結果も引き受けやすいのが発達障害の子どもたちであるという言い方ができると思いますし、そこでさらに起こるのが対人関係そのものの誤学習です。

 幼児期から学校の時代は、対人関係のことをどんどん学んでいく時期なんですけれども、そうしたときにいじめという状況にさらされると、対人関係を完全に間違ったパターンで覚えてしまいます。人とかかわるのは怖いことだから、人とできるだけかかわらないようにしようという考え持つようになりますよね。だから、1回いじめを経験して、友達をつくるのは怖いことなのだと学習した結果「僕は友達が要りません」と言うようになる発達障害の子どもたちはいっぱいいます。「社会に出るために人と上手につき合っていくことが必要だよね」という話をしても、その意欲を持てないくらい傷つきが深過ぎるのです。何で傷ついてしまったかというと、それが幼稚園時代のいじめのせいだったりするということが起こります。
 ここまでさかのぼってケアをしなければいけないというのが発達障害の子どもたち独特の問題だと思います。

 そして発達障害の子どもが陥りがちな誤学習のもう一つのかたちは、『支配的な関係』です。これについては多分、養護施設の中でのことでこれから話してもらえる話がそこを典型的にあらわしているのではないかと思うのですけれども、不適切な養育が奪ってしまっているものは、人間対人間のかかわりの一番根本的なところには愛があるという経験なんです。無条件で愛してもらう経験があって初めて、子どもを育てることが成り立っているので、親がとても厳しくなったり、虐待的になったり、手を焼いてほんとうに困った子どもだと思ったときには、その愛情が引き揚げられてしまっているんです。そうすると、子どもの心に残るのは、幼稚園の関係であれ、家の中の兄弟同士のライバル関係であれ、周囲は自分のライバルだという意識です。敵対とまではいかなくても、競う関係、どっちがどっちよりも強いかということだけが残ることになるのです。

 極論をしますと多分、人間関係は大きく分けてこの2つなんです。人に対して何かしようと思うときに、人を愛しているからしようと思うか、人に対して優位に立とうと思ってしようとするか。愛してもらった経験が奪われてしまった子どもは、人よりも強いか弱いかということでしか人間関係をはかれなくなるのです。その結果が、いじめ加害をはじめとする暴力の関係なのだろうと思うわけです。
 どこでこの子は誤学習をしてしまったのだろうということを考えないと、人に対して「だって、あいつがやったんだから、おれは10倍にしてやり返さないと気が済まない」という認知の仕方を修正することは難しいのではないか、その子どもに愛された経験の記憶が薄くなってしまっている分、難しいのではないかと思うわけです。
 私が最近考えている子どもにとっての慢性的な暴力とか、暴力を振るわれる・振るうということの関係と、育ちの環境のお話を一応ここまでにして、後の先生たちのお話を待ちたいと思います。どうもありがとうございました。」

※本ページ掲載の第41回分に関しては、ブックレットの在庫がなくなりましたので、配布を終了させていただきました。

都立小児総合医療センター 医療連携室
電話042(300)5111(代) 内線3195

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